浅井シェフは去年の夏に南フランスを訪れている。
ミシュランを片手にエズ村から始まり、モナコ、ニース、マルセイユ、リュベロンの山岳地帯からリヨンに程近いヴァンスまで毎日何百キロと車を走らせながら星付きレストランを巡るのである。
仕事、フランス、また仕事と・・・休む間もなくヴァカンスを毎年繰り返すのだ。
どうしてそこまで過酷な道を彼は突き進むのであろう。南フランスの旅を浅井シェフはこう振り返る。
一番驚いたのは「ロアジス(ラ・ナプール)、ムーラン・ド・ムージャン(ムージャン村)のさんざめきだった。
夜中までテラスを埋め尽くす世界各国からのゲスト達。
短い夏のヴァカンスを、ゆっくり会話をしながら食事を楽しむ光景は歴史を感じさせる事もさながら、まるで自分がその時代に入っていったかのようで不思議な感覚だった。」と、
浅井シェフが修行時代なけなしのお金で買った古本にその当時のレストランの写真がついているページが、
何十年がたってもそのまま再現されていたことだった。
今のフランスを体験することにより、浅井シェフは落ち着きを取り戻せたという。冷静になれ、また一つ一つ積み上げていきたいと・・・
上京して10年弱。浅井シェフは30歳を目前に独立のタイミングを見計らっていた。
浅井が料理人になろうと決心したのは、従来のフレンチシェフとは一線を画す、フランス帰りの大物アーティストとして、三國氏のことをセンセーショナルに取り上げていたテレビ番組を録画した一本のヴィデオテープがきっかけだった。
見習い時代たまたま先輩が貸してくれたものだったが、当時の浅井シェフにはかなりの衝撃を与えた内容であった。
自分も何か行動しなければ・・・すぐさま浅井シェフはコックコートを片手に上京した。
「レストランひらまつ」の門を叩き、そこで出会った河野シェフと「タイユヴァン・ロブション」の立ち上げに奮闘し、さらには河野シェフが経営する「レストラン モナリザ」を一緒に立ち上げた。
今や「タイユヴァン・ロブション(現ジョエル・ロブション)」も「レストラン モナリザ」もミシュラン本で紹介される超一流の店に成長している。
30歳目前の浅井シェフに残された目標はただ一つ。自分の店をオープンすることだけだった。
独立の夢が威風堂々(いふうどうどう)と彼の胸に鎮座(ちんざ)していた。
独立のきっかけになったのは、名古屋の老舗フレンチ店からの誘いだった。
その頃、浅井シェフはちょうど独立最初の勝負の地を模索していたのだ。
“東京 銀座”が定石(じょうせき)であるかもしれない。
しかし、そもそも東京でいいのか、自分を存分に表現できる地は一体どこなのか・・・。
そんなことを考えていた時、生まれ故郷の名古屋の店からお呼びがかかった。
しかも、伝統と格式の漂う老舗レストランから。シェフとして招かれたのであった。
新進的とも称される「タイユヴァン・ロブション」に登りつめた浅井シェフが歴史を誇る老舗フレンチ、しかも地方都市のレストランで腕を振るったら一体どのような化学反応が起こるか・・・。
浅井は自分のことながら興味深く感じていた。
10年もの間、“東京漬け”だった浅井シェフはいったん地方都市に出てから独立の地を確定させる算段だった。
だから名古屋で働く意義は自分の実力が地方のレストランでも通じるかどうかの確認作業だった。
2002年名古屋の老舗レストランのシェフとしてスタートするが問題は山積みであった・・・
名古屋での現実を必死で受け入れようと日々格闘の3年だった。
当時、浅井シェフは独立を目前にこの上ないプロ意識で仕事に打ち込んでいた。
彼にとっては他人の店で働く“最後の仕事”だと感じていたからだ。しかしのどかな地方都市で息づいてきた地元の業者には、スト
イックな彼がまるで鬼のように映ったのかもしれない。
東京では簡単に入手できた食材が名古屋ではなかなか入ってこない。入ったとしても仕入れ値がバカ高い。
その結果、自分の作りたい料理を自由に表現できなくなる。クリエーターとしては死活問題だった。
息巻く浅井シェフに業者は辟易(へきえき)した。浅井シェフのスタンダードは地方都市のそれとは大きく乖離(かいり)していた。
どこにいても自分のベストを尽くしたい。
その純粋な思いは途中で萎える(なえる)こともなく、そのまま独立へと突き進んだ。
フランス料理人になって16年を迎えた2004年10月、浅井シェフは「イグレック アサイ」をオープンした。
これまでの料理人人生を集大成した牙城(がじょう)を築いたのだ。
独立して半年経った頃、雑誌に取り上げられたことが影響して、あっという間に口コミで評判が広がった。
“新進気鋭の若手シェフ”あるいは“名だたる名店で修行した天才”などと、マスコミは華々しく彼を紹介した。
独立して4年が経ちこの時代に立ち向かおうと意気揚々としている浅井シェフ。
彼は今何を目指しているのか・・・
「イグレック アサイがレストランに位置すれば、それに続くビストロ、ブラッスリー、カフェと展開し、組織内できちんとしたピラミッドを形成し、お客様がその時の気分や予算に合わせて、お店を選べるような環境を作っていきたい。」と話す。
もし事業の拡大を狙うのなら、フレンチレストランの未来はウェディングという一大事業を作る方法が通例と言われている。
しかし、浅井シェフが考えているのは、もう一つの理由があり、
「そうした各店は、自分の元で修行を積んだ料理人達が独立する前に、シェフとして活躍する場でもありたい。」と話す。
誰もが羨むような圧倒的な贅沢を表現することは、浅井シェフにとってはむしろ簡単なことかもしれない。
そこにとどまらず次に挑んでいくのは、日常、OLや家族、幅広い年齢層が通えるような店作り、よりたくさんの笑顔が見たいと願う。
浅井シェフが目指すその空間はお客様にとって“手の届く最高級の贅沢”であることは確かだろう。
「もちろん、まずは“イグレック アサイ”をもっともっと頑丈に育ててからの話ですけどね。」
と浅井シェフは最後に微笑んだ。