浅井シェフの料理は正面が若干、右斜めを向いている。
料理が洗練されて見える角度を心得ているのだろう。
伝統的なフレンチのエスプリを十分に感じさせながらも、どこか現代的でもある料理たち。
ミリ単位の黄金律にこだわった食の世界――。
その浅井シェフが「ひらまつ」の次に武者修行に訪れたのは、フランスの有名三ツ星レストラン「タイユヴァン・ロブション」だった。
今、目の前にある美しい料理は、世紀の料理人と称されるジョエル・ロブションの元で働くこと、
そして何よりも持ち前のセンスのよさを、“ミリ単位の黄金律”という高みまで極めることでできたのだ。
きっかけは「ひらまつ」時代に世話になった河野透シェフ(現「モナリザ」料理長)だった。
かつてジョエル・ロブションの愛弟子として薫陶(くんとう)を受けた河野氏は、
「ひらまつ」勤務時代から「タイユヴァン・ロブション」の日本イベント時に起用され、すでに国内外から一目おかれる存在だった。
東京・恵比寿の「タイユヴァン・ロブション」の初代日本人シェフとして河野氏が抜擢され、浅井は彼についていくことにしたのだ。
河野氏と浅井シェフはオフ時にもバーに一緒に飲みに行くような仲になっていた。
めったに人を褒めることのない河野氏に浅井シェフが褒められるという一件以来、二人の距離は確実に縮まったのだ。
互いに多くを話すタイプではなく、河野氏はつねに威厳に満ちた寡黙(かもく)な師匠だったが、
仕事の上司・部下という関係以上に信頼で結ばれ、共に戦う同士のような存在になっていた。
河野氏についていくことに迷いはなかった。
恵比寿の「タイユヴァン・ロブション」オープンに先がけて、浅井シェフはまず本場・フランスの本店で働きたいと申し出た。
当時の浅井シェフは25歳。将来に向けて、あらゆることを貪欲に吸収しようと浅井シェフは腹を据えたのだ。
「ここまで来たら、世界最高峰をのぞかなくては…」
パリ「ジョエル・ロブション」でスタージュに入るやいなや、浅井シェフは肝を抜かれた。
「料理人のステイタスというか、フランスで料理人がしっかり市民権を得ている現実に大変驚きました」
と浅井シェフは振り返る。
文化に根付いた大切な職業として、料理人やギャルソンという仕事をフランス市民が尊敬の念で捉えていたのだ。
日本では考えられないことだった。
キッチンに入るとさらに驚愕(きょうがく)した。
日本では見たことのないような調理器具が勢揃いし、
ガスコンロにしても非常に機能的で衛生的だった。キッチンに置かれているものすべての配置が計算しくつされていて完璧。
「仕事に対するプライドが保てるようなキッチン」と浅井シェフは表現する。
さらに驚いたのは料理人の仕事ぶりだ。「おおげさに言えばオーケストラ」と浅井シェフははにかむが、指揮の仕方からまったく違った。
周りを見渡せば、ミリ単位までこだわる厳粛な指揮者ジョエル・ロブションを筆頭に、
仏ミシュランで三つ星に輝いた「ル・プレカトラン」で腕をふるうロブションの一番弟子フレデリック・アントンやブノワ・ ギシャール、エリック・ルセルフなど有名料理人たちが、
当時、同じ店でともに鍛錬(たんれん)していたのだ。しかもまだポジション長という立場で。
「今振り返ってみても、すごいことだと思います。ロブションを見れば、世界の料理が見える、という感じで、人も食材も、すべて最高レベルのものがロブションには集結していたのです。」
精巧な料理を生むための厳粛な場所・キッチンで、25歳の浅井シェフは気圧された。
ロブションのキッチンでは間違いなく世界最高レベルの食が創りだされていたのだ。
ロブションで得た価値観はすべてが新しく、帰国後の浅井シェフを生まれ変わらせることになった。
1993年、東京・恵比寿に「タイユヴァン・ロブション」がオープンした。
バブル崩壊後のせちがらい雰囲気の中、ハイクラスの高級フランス料理を提供していくことは、ある意味、時代に逆行する流れでもあったのかもしれない。
しかしそういう時代だからこそ、本物の要人ばかりがロブションに足を運ぶことにもなった。
フランスの本店から応援にかけつけた豪華な面々とともに、浅井シェフは急激に成長した。
メインダイニングには20人近い料理人がおり、レベルの高い料理人とともに働けることに浅井シェフは心から満足して
いた。
入社後、浅井シェフはすぐにポジション長に昇格した。しかし順風満帆に見えた浅井シェフにやがて暗雲が立ちこめる。
入社した1年目に、突然入院することになったのだ。
仕事に取り付かれたように連日12時間以上もキッチンに立ち続けた浅井シェフの体は、過労にむしばまれていたのだ。
chef's story VOL.4>