「手の届く贅沢」を表現し続けるフランス料理レストラン イグレックアサイ
2004年名古屋都心のカルチャーエリアに身を構えた名古屋フランス料理界の若獅子は
これからもさらに美食への追及にこだわり日々躍進したいと決意する。

ヴィシソワーズという冷製スープがある。
バターでポワロー葱とじゃが芋を炒めてからブイヨンを加えて煮、裏ごしして生クリームでのばして冷やす。
フレンチレストランの夏メニューに登場する定番の一品。 いったいこの冷製スープの発祥の地は、フランスなのかアメリカなのか?
ニューヨークのザ・リッツカールトンのシェフがフランスのヴィシー出身であった為、 この名がついたとか、フランス人シェフが考案したアメリカ発祥のスープということでしょうか。
戦後すぐアメリカに派遣料理人を出していた帝国ホテルは、この冷製スープを日本に持ち帰った当時、日本にポワロー葱が無かったので、代わりに長葱を使用していたそうです。
僕が見習い時代、修行していた名古屋観光ホテルも、当時はポワロー葱も流通していた にもかかわらず、このスープだけ長葱を使っていました。不思議に感じてはいましたが、 とても怖くて料理長に聞けませんでした。
毎年夏が近づくと銅鍋でじゃが芋と長葱をバターでゆっくり炒める光景を思い出します。
ブイヨンを加えて煮あがったじゃが芋と長葱は本当に良い香りがしていました。 熱々のうちに裏ごしするのが見習いの僕の仕事です。
シェフとなった今、少しアレンジして僕は表現します。
ヴィシソワーズに丸ごと一匹分調理した鮎のピューレを加え、初夏の香りを加え、 冷やした器にたっぷりのキャビア、コンソメジュレ、ヴィシソワーズと注いでいきます。
最後に盛る木の芽の香りも気に入っています。
鮎の薫るヴィシソワーズは、ディナーのアミューズとして来て下さったお客様皆様に お出しします。
今年の初夏のセレクションは、渡り蟹やオマール海老、フォアグラ、アナゴや三河湾産のアサリと初夏の食材が目白押しです。
皆様ぜひ初夏のイグレックアサイへお越しください。




1969年、愛知県生まれ。
ニチエイ調理専門学校を卒業後
19歳より名古屋観光ホテルにて見習いを始める。
レストランひらまつ(南麻布)
ジュエル・ロブション(パリ)
タイユヴァン・ロブション(目黒)
レストランモナリザ(恵比寿)
東京・フランスの一流店にて修行を重ね、
フランス料理のエスプリを受け継ぐ。
2001年名古屋の老舗レストランにシェフとして迎えられる

フランス料理人16年を迎えた2004年10月
イグレック アサイをオープン。
2016年10月に12周年を迎える。

愛知で多感な少年期を過ごした浅井康史シェフは、18歳で料理の道を志した。名古屋観光ホテルで鍋洗いをしていたある日、先輩から借りた一本のビデオテープが彼の人生を大きく揺さぶったこととなる。こうして浅井シェフの武者修行がはじまった・・・。名古屋グルメの次世代を担う男の夢とチャレンジの軌跡。


VOL.1

「ムーラン・ルージュ」などの作品で、ポスター画を芸術の域にまで高めたフランスの偉大な画家、アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック。彼は稀にみる健啖家(けんたんか)で食通であり、お酒と名のつくものに目がなかった人物でもあったという。そんなロートレックの永年の友人で、共に料理を楽しみ、後にロートレック美術館を建設したモーリス・ジョワイヤンは、その友情の証として1冊の本を世に献上している。“La Cuisine de Monsieur Momo”(Momoはロートレックの筆名)。300ページにも及ぶレシピには、ロートレックのクロッキーが添えられ、モンマルトル界隈(かいわい)のカフェやレストランのざわめきや人いきれを今に伝えている。
紹介される料理は、彼の作品に似て、洒落気とユーモアに溢れ、遊び心が随所にちりばめられている。ロートレックはわれわれに今も語りかける。「料理とは人間の文化であり、その土地の人々、土地が与えてくれる素材と深くかかわり合っている」と・・・。こんな話を唐突に始めたのも、印象的なフレンチレストランに出会ったからだ。盛りつけられた料理は、数多くの修羅場をくぐり抜けた料理人ならではの情熱と美意識を饒舌(じょうぜつ)に物語っている。もちろん味は折り紙付きである。素材の奥行きを感じさせるその食感は、知的であり遊び心に満ちている。
店の名は「イグレックアサイ(イグレックはフランス語でYの意)」。シェフの名前浅井康史(あさい・やすふみ)を冠したこのレストランは、名古屋で“三ツ星の味”が堪能できる本格的フレンチとして定評がある。シェフを務める浅井シェフは、「ひらまつ」「モナリザ」といった名だたるレストランで修行を重ね、「タイユヴァン・ロブション」時代には20世紀最高の料理人と称される巨匠、ジョエル・ロブションをもうならせた人物だ。近年、名古屋のグルメ事情が再編される中にあって、名古屋グルメの牽引車(けんいんしゃ)としても知られている。
ロートレックは“料理芸術家”であり、“総合演出家”であったが、浅井シェフ自身も料理人であると同時に、クリエイターであることを強く自負している。「伝統的なものを、自分の中で消化しながら、現代的な料理へと昇華させることがテーマだ」と浅井シェフは語る。優れた芸術家は破壊と創造を繰り返すと言われるが、なるほど、これが知的さと遊び心を感じさせる所以なのだろう。
話題に事欠かない浅井シェフではあるが、料理人を志したのは、驚くほど些細な理由からだったという。
「実家が和菓子屋で両親の背中を見ながら育てられました。ですから物心つく頃には漠然と“手に職をつけたい”と考えていたわけです」。父親から料理人は独立しやすいと聞かされていたのも浅井シェフの背中を押した。「そして、いつしか自分は料理の道しかないと考えるようになっていました」。
高校時代はバンドとアルバイトに明け暮れた毎日。調理師学校に進学したものの「当時はコックになれればいいかな」という軽い気持ちであったと振り返る。とはいえ、自分の未来に対し、無欲であったのかといえばそうではない。むしろ、こだわりは誰よりも強かったようだ。「卒業後、最初に就職した名古屋観光ホテルでは、幸運にも鍋洗いの仕事を任されました。本当に楽しかった」と目を輝かせている。もちろんその幸運とは単に鍋を洗う作業を指すわけではない。フランス料理にとってソースは命であり、料理し終えたばかりの鍋には、料理人の豊穣な知恵が息づいているといわれている。言い換えれば、洗い終える前の鍋が浅井シェフにとっても最高の教科書であったわけだ。「フランス料理の宗教的なまでの厳格さに驚かされる毎日でした。食材の扱い方からソースの技や盛り付け法まで、知れば知るほど、フランス料理の技や伝統、文化の奥深さが頭から離れなくなるわけです」。
そんなある日、浅井シェフに転機が訪れた。扉を敲いたのは先輩から借りた一本のビデオテープだった。
「情熱の大半をフランス料理へ傾けていたある日、オテル・ドゥ・ミクニの番組をたまたま目にしました。オーナーシェフでありながら、一人のアーティストとして自分を自由に表現する三国さんの言葉に強い衝撃を覚えました」と振り返る。と同時にあせりも込み上げてきたと力を込める。「三国さんは29歳の若さで自分の店をオープンさせたわけです。22歳の三国さんはどんなキャリアを積んでいたのだろうってね」。この出来事が、現在の浅井シェフの原点となったようだ。いてもたってもいられなくなった浅井シェフはすぐさま行動に出たという。名古屋はもちろん名の知れたレストランをめぐりはじめたのである。だが、「ここだ」というレストランには、なかなか出会えずにいた。
「“フレンチを極めたい”。気がつくと僕はカバン一つで、新天地を求め上京していました」。 こうして、浅井シェフの武者修行が幕を開けた。それは22歳の冬のことだった。

VOL.2

「高度に洗練された食の中心。季節ごとの食材は変化に富み、古い伝統を新しい世代にきちんと伝えている」。11月22日、アジア初となる「ミシュランガイド東京」を発行したミシュラン総責任者ジャン=リュック・ナレ氏は東京の食事情をこう評した。『100年以上の歴史を誇り、公正かつ容赦のない評論で知られるミシュランの格付けが、どう受け入れられるか、関係者でなくても興味をそそるところだが、実際、今、東京の食は世界のどこよりも豊かになったのは事実だ。星の有無とは関係なしに、それこそ飲食店が何千店も存在する。その中で輝きを放てるのは、ほんの一握りに過ぎないが、輝きを放つ店舗には共通する要素がありそうだ。それが「エスプリ」である。』
料理に対するエスプリ、食材に対するエスプリ。そんなエスプリを求め浅井シェフはカバン一つで、生まれ育った街「名古屋」から旅立った。今から16年前のことだ。目指したのは東京・広尾にあるフランスレストラン。伝統あるパリの名店の中にあって、開店4ヶ月でミシュランガイドの1つ星を獲得するという快挙を成し遂げたあの「レストランひらまつ」だ。右手に履歴書、左手にはコックコート。一世一代の勝負である。
お客として「ひらまつ」に足を踏み入れると、そこは絢爛豪華(けんらんごうか)なヨーロッパの芸術的空間が広がっていた。静粛なシャガールの絵画が容赦なく緊張を高めた。その極めて非日常的な空間で、浅井シェフはどのタイミングで履歴書を出すべきかずっと考えていたが、なかなか話を切り出せず、結局、最後のエスプレッソを注文する時、ようやく話し出した。
やわらかな笑みをたたえた「ひらまつ」のマダムは、その時の浅井シェフに少なからず安堵感(あんどかん)を与えたという。言葉少なに「す、すみません。実は…」とマダムに話しだすと、次の瞬間マダムはやんわりとこう告げた。「今、平松はミーティング中ですので、すみませんが…」予想だにしなかったと言ったら嘘になる。しかしこうもあっさりと断られると、気が抜けるのも当然だ。手に汗握る浅井シェフはひと呼吸し、次の一手を模索しはじめた。食事も済み、ほどなく店を去らねばならない。このまま終わってしまうのか…。後ろ髪を引かれる思いで、とりあえず席を後にした。
だが帰り際に一瞬、キッチンが垣間見えたことが、浅井シェフの中に次なる決心を芽生えさせることになった。目にしたのは、これまで見たこともない巨大なキッチンだった。
そういえば、こんな話を聞いたことがある。フランス料理に適した厨房をフランスの料理人は日夜考えているという。たとえば寿司屋の厨房をフランスでフランス人に作らせたら、きっとレベルの低いものしかできないだろうが、日本で日本人に寿司屋の厨房を作らせたらうまいだろう。それと同じようにフランス人の作ったフランス料理の厨房はよくできている。そこにフランスと日本における料理の歴史、文化の違いがある…。浅井シェフは瞬間的にそれを感じたのかもしれない。
実際、彼らのふるう腕は機敏で繊細、そして大胆…。その光景は浅井シェフの目を一瞬にして釘つけにした。三国シェフのビデオテープの残像とも重なる光景が、浅井シェフ情熱に再び火をつけたのだ。追い求めるものが確かにそこにはあったのだ。
店の外に出るとあたりは冬景色。2月の寒空の下、浅井シェフは店の前で長い間一人たたずんでいた。コックコートを握る手はいつしか震えだしていたが、寒さのせいなのか、緊張のせいなのかは定かではなかった。全身を突き刺すような寒さとは対照的に、浅井シェフの中では抱えきれない熱い想いが飽和(ほうわ)していった。「どんなに笑われようが、今の自分をアピールするしかない。どうしても今日中に会いたい」。浅井シェフはこう独りつぶやき、店が静まり返ると素早くコックコートに着替えた。店の裏口へ急ぎ、深呼吸してから戸をたたく。それはまさに夢の扉を開いた瞬間でもあった。
ちなみに「ひらまつ」で浅井シェフを迎え入れたのは、困惑した表情の平松社長と、彼の右腕と言われた呆れ顔の河野氏だ。そう、ミシュランで一つ星に輝いた「モナリザ」のオーナーシェフである。河野氏は「フランスの三ツ星(レストラン)なら、今ごろ追い出されているよ」とため息まじりに言い放ち、さらに追い打ちを掛けるように平松氏は「おまえ、血の小便がでるかも知れんぞ、それでもいいんだな?」とたたみかけた。
入社後、最初の数ヶ月はもちろん雑用ばかり。しかし持ち前の勤勉さで周囲からの信頼を獲得し、鍋洗い・皿洗いから、半年後には前菜を任されるようになった。文字通り“血の小便”は言うに及ばず、仕事に明け暮れた下積み生活が続いた。
「仕込みの量がまず半端じゃなかった。加えて、朝は築地に仕入れに出かけ、夜も遅くまで働きました。そして3年目になる頃にはソース作りを任されるようになりました」と話す。浅井シェフの表情は至って涼しげだが、たった3年で天下の「ひらまつ」でソース作りとは!当時の「ひらまつ」のキッチンには30人ほどの料理人がいたはずだ。彼らを差し置き、24歳の浅井シェフが大抜擢されていたということになる。尋常ではないことは想像に難くない。
その間、浅井シェフを支えていたものが、いつも頭の片隅にある三国シェフの存在だった。“29歳で独立”した三国シェフを浅井シェフはいつしかひとつのバロメーターとして捉えるようになり、それに向けてひたすらまい進していたのだ。
そんな彼に次の切符を渡したのが「ひらまつ」の河野氏だった。皮肉はあれど、なかなか他人を褒めることはない河野氏。そんな彼がある日、浅井シェフの肩に手をおきこう言ったのだ。「おまえ、本当にがんばったな」
こうして浅井シェフは次なる武者修行の地・フランスへ渡ることになる。本場フランスでも最高峰とされる「ジュエル・ロブション」が、浅井シェフを待ち構えていた。

VOL.3

浅井シェフの料理は正面が若干、右斜めを向いている。料理が洗練されて見える角度を心得ているのだろう。伝統的なフレンチのエスプリを十分に感じさせながらも、どこか現代的でもある料理たち。ミリ単位の黄金律にこだわった食の世界――。
その浅井シェフが「ひらまつ」の次に武者修行に訪れたのは、フランスの有名三ツ星レストラン「タイユヴァン・ロブション」だった。今、目の前にある美しい料理は、世紀の料理人と称されるジョエル・ロブションの元で働くこと、そして何よりも持ち前のセンスのよさを、“ミリ単位の黄金律”という高みまで極めることでできたのだ。
きっかけは「ひらまつ」時代に世話になった河野透シェフ(現「モナリザ」料理長)だった。かつてジョエル・ロブションの愛弟子として薫陶(くんとう)を受けた河野氏は、「ひらまつ」勤務時代から「タイユヴァン・ロブション」の日本イベント時に起用され、すでに国内外から一目おかれる存在だった。東京・恵比寿の「タイユヴァン・ロブション」の初代日本人シェフとして河野氏が抜擢され、浅井は彼についていくことにしたのだ。
河野氏と浅井シェフはオフ時にもバーに一緒に飲みに行くような仲になっていた。めったに人を褒めることのない河野氏に浅井シェフが褒められるという一件以来、二人の距離は確実に縮まったのだ。互いに多くを話すタイプではなく、河野氏はつねに威厳に満ちた寡黙(かもく)な師匠だったが、仕事の上司・部下という関係以上に信頼で結ばれ、共に戦う同士のような存在になっていた。河野氏についていくことに迷いはなかった。
恵比寿の「タイユヴァン・ロブション」オープンに先がけて、浅井シェフはまず本場・フランスの本店で働きたいと申し出た。当時の浅井シェフは25歳。将来に向けて、あらゆることを貪欲に吸収しようと浅井シェフは腹を据えたのだ。「ここまで来たら、世界最高峰をのぞかなくては…

パリ「ジョエル・ロブション」でスタージュに入るやいなや、浅井シェフは肝を抜かれた。「料理人のステイタスというか、フランスで料理人がしっかり市民権を得ている現実に大変驚きました」と浅井シェフは振り返る。文化に根付いた大切な職業として、料理人やギャルソンという仕事をフランス市民が尊敬の念で捉えていたのだ。日本では考えられないことだった。
キッチンに入るとさらに驚愕(きょうがく)した。日本では見たことのないような調理器具が勢揃いし、ガスコンロにしても非常に機能的で衛生的だった。キッチンに置かれているものすべての配置が計算しくつされていて完璧。「仕事に対するプライドが保てるようなキッチン」と浅井シェフは表現する。
さらに驚いたのは料理人の仕事ぶりだ。「おおげさに言えばオーケストラ」と浅井シェフははにかむが、指揮の仕方からまったく違った。周りを見渡せば、ミリ単位までこだわる厳粛な指揮者ジョエル・ロブションを筆頭に、仏ミシュランで三つ星に輝いた「ル・プレカトラン」で腕をふるうロブションの一番弟子フレデリック・アントンやブノワ・ ギシャール、エリック・ルセルフなど有名料理人たちが、当時、同じ店でともに鍛錬(たんれん)していたのだ。しかもまだポジション長という立場で。
「今振り返ってみても、すごいことだと思います。ロブションを見れば、世界の料理が見える、という感じで、人も食材も、すべて最高レベルのものがロブションには集結していたのです」。
精巧な料理を生むための厳粛な場所・キッチンで、25歳の浅井シェフは気圧された。ロブションのキッチンでは間違いなく世界最高レベルの食が創りだされていたのだ。ロブションで得た価値観はすべてが新しく、帰国後の浅井シェフを生まれ変わらせることになった。
1993年、東京・恵比寿に「タイユヴァン・ロブション」がオープンした。バブル崩壊後のせちがらい雰囲気の中、ハイクラスの高級フランス料理を提供していくことは、ある意味、時代に逆行する流れでもあったのかもしれない。しかしそういう時代だからこそ、本物の要人ばかりがロブションに足を運ぶことにもなった。
フランスの本店から応援にかけつけた豪華な面々とともに、浅井シェフは急激に成長した。メインダイニングには20人近い料理人がおり、レベルの高い料理人とともに働けることに浅井シェフは心から満足していた。
入社後、浅井シェフはすぐにポジション長に昇格した。しかし順風満帆に見えた浅井シェフにやがて暗雲が立ちこめる。入社した1年目に、突然入院することになったのだ。仕事に取り付かれたように連日12時間以上もキッチンに立ち続けた浅井シェフの体は、過労にむしばまれていたのだ。

VOL.4

恵比寿ガーデンプレイス内にあるシンボル的な建造物“シャトーレストラン・タイユヴァンロブション”(現“ジョエル・ロブション”)当時フランスの三ツ星“タイユヴァン”と“ロブション”が一つの館で最高の料理とサービスを提供するという、前代未聞の世界六ツ星として話題をさらっていた。
噂を聞きつけたグルメたちで溢れ、オープン当初から半年後まで既に満席といった状態が続いた。
毎日昼夜100名のゲスト。週末となればその倍のゲスト達でにぎわう。
そんな調理場内の過酷さは、想像をはるかに超えたものだったに違いない。
日本各地から集まった優秀なキュイジニエ(料理人)たちは、そんな過酷な毎日の中、団結心を強くし、テクニックだけでなく、ありとあらゆるものを習得していったのであろう。
その証として、当時のメンバーは日本各地にとどまらず、世界各地で活躍中である。
まさしく食べ手にとっても作り手にとっても夢のレストランであったに違いない。
それは22歳で上京し、フレンチレストランで修行をはじめた浅井シェフにとっても同じであった。
そして“タイユヴァンロブション”の中核となるまで力をつけていたのだった。
しかしそんな矢先、浅井シェフはオープニング当初からの疲労が重なり、身体を壊し、過労で倒れてしまう。医者からストップがかかってしまったのだ。覚悟はしていたものの、浅井シェフにとって病室は別世界、青白い天井を見上げながら「自分は復帰できるのだろうか?」「もし戻れたとしても自分の居場所はあるのだろうか?」と毎晩不安な夜を過ごすことになった。
「ふと考えては連日連夜戦場のような調理場の光景が頭をよぎっていました。そして仲間は頑張っているのに自分はベッドの上…と、やりきれない気持ちでいっぱいでした。」と、その時のことを語っている。
退院し、復帰はするも、すぐにポジションチェンジを言い渡され、なれないポジションで部門長を務めることになる。だが問題が続出してしまう。さらに仕事は半端になく多い上、他のポジションよりスタッフも少なく、とても足りない…その辛さのあまり後輩たちは去っていく一方だったのだ。スムーズに仕事を回すのも困難な環境、通院しなければならないというハンデ、病み上がりで発揮できない本来の力。そんな無残な状況に置かれた浅井の評価は下がっていった。そしてついには昇格の先送りまで宣告されるのである。でも浅井シェフは腐らず負けなかった。自分はやる。いや、できるんだ。今は我慢の時だと・・・そんな時、浅井シェフに救いの手を差し伸べたのが河野氏だった。
『料理コンクールの出場の要請』それは浅井シェフのスランプを気遣う河野氏の優しさかもしれなかった。しかし即答できないでいた。「現状の仕事でこんな状態なのにコンクールに出場している余裕はない」と。しかし、その一方で「だが何もしなければ依然として出口も見えない…」とも思っていた。そして次第に「もう一度自分を奮い立たせるチャンスかもしれない」という考えが頭の中を支配するようになり、ついに浅井シェフは河野氏にコンクール出場を申し出る。締め切りギリギリの日だった。
連日机に向かい料理のスケッチとレシピを完成させ、一次審査を通過。
今の自分の可能性へのチャレンジという別のテーマが彼にはあったのだ。休日も返上して試作を繰り返し、河野氏に味をチェックしてもらう。OKをもらうたび自分を高めていく。
そして“タイユヴァンロブション”の看板を背負い出場した結果、見事準優勝に輝いたのだった。
浅井シェフは少しずつ自信を取り戻していった。それが仕事にもつながり、シェフやスタッフの信頼も徐々に戻り、昇格も果たした。「人間的にも大きく成長できた時期です」と浅井シェフは振り返る。
円熟の域に達した27歳のとき、再び浅井シェフに転機が訪れた。10年来の付き合いになる河野氏が“タイユヴァンロブション”の日本人シェフという立場を辞め、独立するというのだ。
上京して以来、ずっと自分を見守ってくれていた河野氏。フランスに行くこともできたのも、話をつけてくれた河野氏のおかげ。
いよいよ自分にも恩返しが出来る時がきた。浅井シェフに迷いはなかった。自分がどこまで役立てるのか。そして現在ミシュランで一つ星に輝く“モナリザ”のスーシェフとして裏舞台を一手に引き受けることになる。
「とにかく河野シェフに成功していただきたかったんです。ただそれだけの想いでした」と浅井シェフは熱く語った。
“モナリザ”の立ち上げに大きく貢献した浅井シェフは、大きくステージを変えることになる。地元名古屋の老舗レストランの料理長という要請を受け、一次、名古屋へ戻ろうと決意したのだ。

VOL.5

浅井シェフは去年の夏に南フランスを訪れている。ミシュランを片手にエズ村から始まり、モナコ、ニース、マルセイユ、リュベロンの山岳地帯からリヨンに程近いヴァンスまで毎日何百キロと車を走らせながら星付きレストランを巡るのである。
仕事、フランス、また仕事と・・・休む間もなくヴァカンスを毎年繰り返すのだ。どうしてそこまで過酷な道を彼は突き進むのであろう。
南フランスの旅を浅井シェフはこう振り返る。一番驚いたのは「ロアジス(ラ・ナプール)、ムーラン・ド・ムージャン(ムージャン村)のさんざめきだった。夜中までテラスを埋め尽くす世界各国からのゲスト達。短い夏のヴァカンスを、ゆっくり会話をしながら食事を楽しむ光景は歴史を感じさせる事もさながら、まるで自分がその時代に入っていったかのようで不思議な感覚だった。」と、浅井シェフが修行時代なけなしのお金で買った古本にその当時のレストランの写真がついているページが、何十年がたってもそのまま再現されていたことだった。今のフランスを体験することにより、浅井シェフは落ち着きを取り戻せたという。冷静になれ、また一つ一つ積み上げていきたいと・・・
上京して10年弱。浅井シェフは30歳を目前に独立のタイミングを見計らっていた。
浅井が料理人になろうと決心したのは、従来のフレンチシェフとは一線を画す、フランス帰りの大物アーティストとして、三國氏のことをセンセーショナルに取り上げていたテレビ番組を録画した一本のヴィデオテープがきっかけだった。見習い時代たまたま先輩が貸してくれたものだったが、当時の浅井シェフにはかなりの衝撃を与えた内容であった。
自分も何か行動しなければ・・・すぐさま浅井シェフはコックコートを片手に上京した。
「レストランひらまつ」の門を叩き、そこで出会った河野シェフと「タイユヴァン・ロブション」の立ち上げに奮闘し、さらには河野シェフが経営する「レストラン モナリザ」を一緒に立ち上げた。今や「タイユヴァン・ロブション(現ジョエル・ロブション)」も「レストラン モナリザ」もミシュラン本で紹介される超一流の店に成長している。30歳目前の浅井シェフに残された目標はただ一つ。自分の店をオープンすることだけだった。独立の夢が威風堂々(いふうどうどう)と彼の胸に鎮座(ちんざ)していた。独立のきっかけになったのは、名古屋の老舗フレンチ店からの誘いだった。その頃、浅井シェフはちょうど独立最初の勝負の地を模索していたのだ。“東京 銀座”が定石(じょうせき)であるかもしれない。
しかし、そもそも東京でいいのか、自分を存分に表現できる地は一体どこなのか・・・。 そんなことを考えていた時、生まれ故郷の名古屋の店からお呼びがかかった。しかも、伝統と格式の漂う老舗レストランから。シェフとして招かれたのであった。新進的とも称される「タイユヴァン・ロブション」に登りつめた浅井シェフが歴史を誇る老舗フレンチ、しかも地方都市のレストランで腕を振るったら一体どのような化学反応が起こるか・・・。
浅井は自分のことながら興味深く感じていた。
10年もの間、“東京漬け”だった浅井シェフはいったん地方都市に出てから独立の地を確定させる算段だった。
だから名古屋で働く意義は自分の実力が地方のレストランでも通じるかどうかの確認作業だった。
2002年名古屋の老舗レストランのシェフとしてスタートするが問題は山積みであった・・・
名古屋での現実を必死で受け入れようと日々格闘の3年だった。
当時、浅井シェフは独立を目前にこの上ないプロ意識で仕事に打ち込んでいた。彼にとっては他人の店で働く“最後の仕事”だと感じていたからだ。しかしのどかな地方都市で息づいてきた地元の業者には、ストイックな彼がまるで鬼のように映ったのかもしれない。
東京では簡単に入手できた食材が名古屋ではなかなか入ってこない。入ったとしても仕入れ値がバカ高い。その結果、自分の作りたい料理を自由に表現できなくなる。クリエーターとしては死活問題だった。息巻く浅井シェフに業者は辟易(へきえき)した。浅井シェフのスタンダードは地方都市のそれとは大きく乖離(かいり)していた。
どこにいても自分のベストを尽くしたい。その純粋な思いは途中で萎える(なえる)こともなく、そのまま独立へと突き進んだ。
フランス料理人になって16年を迎えた2004年10月、浅井シェフは「イグレック アサイ」をオープンした。これまでの料理人人生を集大成した牙城(がじょう)を築いたのだ。
独立して半年経った頃、雑誌に取り上げられたことが影響して、あっという間に口コミで評判が広がった。“新進気鋭の若手シェフ”あるいは“名だたる名店で修行した天才”などと、マスコミは華々しく彼を紹介した。
独立して4年が経ちこの時代に立ち向かおうと意気揚々としている浅井シェフ。彼は今何を目指しているのか・・・
「イグレック アサイがレストランに位置すれば、それに続くビストロ、ブラッスリー、カフェと展開し、組織内できちんとしたピラミッドを形成し、お客様がその時の気分や予算に合わせて、お店を選べるような環境を作っていきたい。」と話す。
もし事業の拡大を狙うのなら、フレンチレストランの未来はウェディングという一大事業を作る方法が通例と言われている。しかし、浅井シェフが考えているのは、もう一つの理由があり、「そうした各店は、自分の元で修行を積んだ料理人達が独立する前に、シェフとして活躍する場でもありたい。」と話す。
誰もが羨むような圧倒的な贅沢を表現することは、浅井シェフにとってはむしろ簡単なことかもしれない。そこにとどまらず次に挑んでいくのは、日常、OLや家族、幅広い年齢層が通えるような店作り、よりたくさんの笑顔が見たいと願う。
浅井シェフが目指すその空間はお客様にとって“手の届く最高級の贅沢”であることは確かだろう。
「もちろん、まずは“イグレック アサイ”をもっともっと頑丈に育ててからの話ですけどね。」と浅井シェフは最後に微笑んだ。

YasufumiAsai